扉が確かに閉まる音を聞いて、立ち尽くしたままぽつりと呟いた。
「疲れた、な」

泣き言ではない。ただの事実確認。
『ゼロ』は倒れてはならない。そのために自身の状態を常に把握しておくのは必要なことだった。

「疲れた」

今日はもう予定はない。だが、すべきことはある。出た案件や提言を理解し、風潮を理解し、人を理解し、明日、動き出すまでに自らの指針を定めておかなければならない。
皆が同じテーブルにつき、話し合いで全てを決定する世界――最早『ゼロ』に奇跡は望まれない。緩やかに、そして穏やかに、世界は人々の手で幾年もかけてひとつになりつつあり、それでもその言動には衆目が集まる。力がある。揺らぐようでは、いけないのだ。
さて、思考をまとめるだけの余力はあるか? 散乱する紙の束を見て、起動させたコンピュータに累積されたデータの量を見て、頭を振った。時間の無駄になりかねない。

(そういえば、今日は朝しか食べていない)
疲労と共に、栄養の不足を感じる。(食べておかないと)義務としてそう思った。
『ゼロ』の食生活は割合健康を重視している。今日はたまたま時間がなく摂れなかったが、大概三食きちんと食べた。内容も、肉を食べる。野菜を食べる。魚を食べる。甘味も酸味も、時には栄養補助食品も摂った。必要な分を、――義務として。

『ゼロ』はここ何年も食事を楽しんだ覚えがない。食卓の団欒や笑顔がないなどといった理由ではなかった。単純に味を感じないのだ。
仮面の下、緑色の瞳は視力を落とすことなく世界を映すが、景色を美しいものとして認識しなくなって随分久しい。
耳は、平和を唄う子供たちの声を拾っても心までは響かせなくなっていた。
体調の変化、そして気温などの体外の変化すら、感じることはできてもどこか遠いもののように捉えている。

日々、人としての部分が摩耗し色褪せていくのを『ゼロ』は知った上で甘受していた。
別に構わない。私は私の役割を果たす、ただそれだけのこと。
それだけでいい。のに。

「つか、れ……」

ぼろ、と頬を滑り落ちる感覚と共に声が詰まった。
「駄目、だ……ッ」
私はゼロなのに。俺が顔を出す。僕がむせび泣く。
今回も三六四日でリタイアだ。泣きながら自嘲して、スザクは仮面を取り去った。誰もいない、監視カメラもない部屋に、硬質の音がこだまする。

視界が歪む。耳鳴りが起こる。奥歯は戦慄き、気道が縮んだ。鈍っていたはずの五感が突然色を取り戻してスザクを苛む。
君と僕の、はじまりの季節がまた来たんだ。言い訳にもならないけれど、でも。
「これくらい許してくれよ、ルルーシュ」
明日からまた、頑張るから。

誰もが未だ憎々しく口にする名を心底愛しげに呼びながら、一年前と、これまでのこの日と同じようにわずかに顎を上げてまぶたを閉じる。
潤む暗闇でかすかに見た。青い空、黄色い太陽の花の海を掻き分ける子供たちを。夏の盛りに灼き付いた、鮮やかな思い出を。子供たちを挟んだ向こう側で自分と同じように微笑む、うつくしいひとを。

口へ流れ込んだ涙が塩辛い。うまくできない呼吸が、自分が生きているんだということを声高に教えていた。






08.10.15